今回は「善意の不善」について取り上げます。
注)「善意の不善」とは、私がこの記事の元記事を
書いた2015年7月12日に「初公開」した言葉。
古い治療の犠牲?
「古い、間違った治療の犠牲になったのではないか?」
糖質オフをしている方の中などでは、このテーマ、やはり度々話題に上がります。
この方々の気持ちは痛い程、分かります。
何度も非常に歯がゆい思いをしてきました。
そして、それは確かな事実でもあります。
古い治療の犠牲になった人はどの時代にもいたし、
現在も多くいるし、今後もゼロにはならない。
医療はずっと未熟であったし、今後も完全では無いから。
栄養・糖尿病・癌に関して
栄養や糖尿病や癌に関していえば、
「炭水化物で6割」しかり、
高インスリン治療しかり、
癌患者さんへのブドウ糖点滴しかり。
未だに長時間強力に血糖値を下げ続ける「SU剤」、
さらに時には第二世代のSU剤(今は改良された第三世代のSU剤があります)すら、投与されており、その結果、低血糖発作が起こっています。
日本中で、世界中で。
湿潤治療では?
湿潤療法においても同様です。
以前にも、消毒やガーゼ、さらには塗る事で痛み・傷が深くなるような軟膏での処置されて、褥瘡や傷が深くなっている患者さんを何人も診ました。
若い女性なのに前医での従来治療で傷が深く・ひどくなっており傷跡が残った症例もありました。
大病院の専門科でも、未だにこれらの従来の「ガーゼと消毒」や、各種の「効果がない、またはむしろ有害な」軟膏で傷が深くなり、痛みに苦しんでいる方々がおられます。
私の診ているのは「内科」ですが、それでもネットで調べて、「湿潤治療」のためにわざわざ遠方から受診された方が何人もいました。
今までと違いがありすぎて、認められない
より痛みが少なく、治る期間も短く、治療もシンプルな、そんな湿潤治療を公表されて何年も経っているのに「認められない」ためです。
血糖値を上げないために、血糖値を上げる「糖質」を控える。
そんなシンプルな事ですら「認められない」ために実施されていません。
そして、血糖値を上げてしまう「糖質」の摂取を、
糖尿病の方に対して「指導」されています。
日本中で、世界中で。
シンプルでより良い方法が、
しかし今までの「常識」と違い過ぎ、
「認められていない」ために、行われていない。
分かります。よく分かります。
こういった患者さんが、遠方から何人も何人も受診しにいっらっしゃったからです。
私もその度に、何度も何度も、悔しい思いをしました。
全く不必要な手術だった
そもそも、私が医師を目指したきっかけも、このような事に根ざしています。
私の祖父は肝細胞癌で亡くなりました。
結核の手術で輸血し、
C型肝炎ウイルスに感染し、
その肝炎ウィルスによって肝細胞癌となり
命を失いました。
地域で一番の医療機関にかかり、
さらに名医とされる医師のいる医療機関にかかり、
しかしながら、命を落としました。
今ではこの結核の手術は
「全く意味が無い」
ことが分かっています。
現在では、結核は抗結核薬で治します。
手術は全く不要です。
当時はその手術をするのが「常識」だった
ですが、当時はこの手術で結核が治る、進行が止まる、と考えられていました。
実際に、広く一般的に行われていた手術でした。
私が医師となってからも、
同じ手術をした後の患者さんを何人も見たことがあります。
(肺の上部分を切除するのでX線やCTの検査で、それが写ります)
また当時は、C型肝炎ウィルスの事もよく分かっておらず、今のように充分には感染対策ができない状況でした。
そういった「輸血でC型肝炎ウィルスに感染した」人は100万人程度いた、という推測があります。
悪意は全くなく、善意のみがそこにあった
当時の医師も結核を治そうと手術をしてくれ、貧血を治そうと輸血をしてくれたのです。
誰も悪くないのです。
悪意はそこにはありませんでした。
多くの善意「のみ」が、そこにありました。
全く不要な手術がなされたが、それは誰も悪くなかった。
悪意は全くなかった。
当時はそれが常識でした。
「善かれ」と思って、「常識」に基づく事を行った。
しかし、結果は祖父の死です。
このように
「善かれ」と思ってした事により、結果として不都合が起きる、
という事を、
「善意の不善」
と呼び始めました。
「常識」は「真実」ではない。
そして「常識」は決して「真実」ではない、という事も強く思い知らされました。
「常識」は決して「真実」ではない。
善意によりなされた事で、本来想定されていない不都合が起きる。
これを「善意の不善」と呼ぶ。(と私、水野が言い始めた)
ヨーロッパでも「善意の不善」と同じ意味のことわざがあります。
「The road to hell is paved with good intentions.」
地獄への道は善意で舗装されている。
その祖父に起こった「善意の不善」こそが、私が医師を目指した原点です。
その時、何もできなかった自分の無力さが、本当に悔しくてたまりませんでした。
祖父を亡くした後も「何もできなくてごめんなさい」と何度も思いました。
「ああすれば良かった」、「こうすれば良かった」と繰り返し思いました。
もう、何もできずに悔しい思いをするのは、うんざりです。
このように、誰もがベストを尽くしていても、「善意の不善」は起こります。
誰もがベストを尽くしても、「善意の不善」は起こる。
「善意の不善」が起きた時には、
特定の誰かを責めても、何も良くなりません。
その誰かに、悪意はなかったのですから。
「善意の不善」の連鎖を止めるには?
「常識」や「普通」が、決して「真実」ではない、と知る事。
より良い方法、よりもっともらしい事、を探し続ける事。
より良い方法、より真実に近い事を見つけたら、それを「認める」事。
それらの「新しい事」は、今までの「常識」とは違うために、
受け入れづらく思うのが常です。
そして、そのより良い「新しい事」を認めたら、
「行動」をする事。
いきなり大きな事はできませんし、
強い拒絶反応を引き起こすので、すべきではありません。
効果は少なくても、すぐ出来る事を今から始める。
それでいいんです。
探し続け、知り、認めた後は、
すぐ出来る事を「今から」始める。
相手を責めず、自分ができる事を「今から」する。
それこそが「善意の不善」の連鎖を止める方法です。
以上、「善意の不善」ついて、でした。